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『ブリンジ・ヌガグ 食うものをくれ』感想:★★★★☆

2011.10.05 Wed
ブリンジ・ヌガグ―食うものをくれ (1974年)
ブリンジ・ヌガグ―食うものをくれ (1974年)コリン・M.ターンブル 幾野 宏

筑摩書房 1974
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 現在では新本で手に入らない1冊。原題は"the Mountain People"、出版は1972年。
 訳者あとがきでは「ナショナル・ブック賞を受賞」との記載があるが、受賞はしていない。1973年のNational Book AwardsのCONTEMPORATY AFFAIRS(時事問題)部門のファイナリストに名を連ねてはいるが。
 ちなみにこのNational Book Awards、日本語版wikipediaでは「全米図書賞」と訳されている。同ページ内から引用すると、「アメリカで最も権威のある文学賞の一つ」なのだとか。本書『ブリンジ・ヌガグ』が最終候補にまで残ったCONTEMPORATY AFFAIRS部門は1972年から1977年までしか存在していない。




 犬と猫の祖先は同じだ、という話がある。彼らを分けたのは環境であった。
 森林で小動物を狩る道を選んだ猫は単独生活者となり、体もそう大きくならなかった。平原に出て自分よりも大きな獲物を狙うことを決めた犬は、狩りの必要性から群を作るようになり、社会的な生き物となった。
 人間が社会生活を基本としているのも、環境要因が原因なのだろう。他の動物と比べて体こそ大きいものの、これといった誇れる身体能力を持たぬ人間は集団で集まり、頭脳に頼って生き延びることになったのだ。
 社会生活は環境に強制された結果でしかなく、環境が変われば生き方も変わる。どんな生物であれ、それらは固定された存在ではない。外部要因や内部要因に突き動かされ、日々日々適応競争に明け暮れている。環境はいつ激変するか分からず、変化に対応出来ない種族はただ滅びるだけだ。一寸先は闇なのである。


 そんな中で、一つの「実験」が行われた。場所は国境近くのウガンダ。対象は少数狩猟民族のイク族(発音としてはイーク族の方が正しい)。実験主はウガンダ政府である。実験内容は、狩猟民族であるイク族から狩猟を奪い、耕作がほぼ不可能な地に定住させて畑を作らせることにより、彼らの社会がどう変貌を遂げるか。
 けれど悲しいかな、この「実験」には実験を行う側にも行われる側にもその意識がなかった。実験主には、イク族が狩猟の場としていた土地に住まう動物を保護したいとの意図と、彼らを定住させ教育させたいとの「発展した側」からの押しつけがあるばかり。現地の状況を調べることもしない、もしくは出来ないのである。故に、この非人道的な実験は、ただ進行し続ける。行う側に意図はなく、行われる側もまた声を上げることはない。
 それに偶然立ち会う羽目になったのが、本書の著者ターンブルである。



 長くなるので、ここでいったん折りたたみ。
 改行する元気がわいてこないので、文字ぎっしり仕様でお送りします。






 移動して狩りをする民族を定住させ、狩りを禁止し畑を作らせる。それだけで十二分に文化破壊である。その上に、渇水により畑作が壊滅的な出来映えとなれば、飢餓まで加わる。
 その結果として何が起こるかを想像すれば、真っ先に暴力が想像される。けれどもイク族は、他者に「何かをする」ことは基本的にはなかった。彼らは生き延びるために自己保身を第一とし、それを相手にも認めた。
 老親の面倒を見ない。子供は3歳になれば家から放り出す。獲物を捕まえても自分一人で食べ、家族にも分配しない。セックスすらもはや煩わしいものとなり、結婚制度は破綻寸前。他者の世話をしない以上、自分もまた誰かの世話になれるとは考えない。老いて這いまわるしか術の無い老人を平気で跨ぐ。そしてその様を笑う。けれども笑われた側も、自分の滑稽さに笑うのである。死は葬儀が面倒だからと隠匿され、生は乳をやらねばならぬと母親を煩わしがらせる。

 狂っている? いや、彼らは清々しいほどに、公平である。彼らは自分が生きるためには何でもする。そして相手も同じだと分かっているのだ。奪った以上、奪われることを理解しているのだ。社会は崩壊した。残ったのはいっそクリーンなまでの個人主義だけである。
 だが彼らもかつては文化を持っていたのだ。死者を埋葬し、そこに穀物の種を撒く慣習があった。季節がくれば草は芽生え、風に揺れるそれらは死を生へと転換したであろう。想像するだけで、美しい光景だ。
 だがそれを覚えているのは、もはや老人だけである。そして彼らは死んでいく。残るのは過去を知らぬ世代のみ。彼らの文化は継承されることなく、死に絶えていくのである。そしてそれは「かつてのイク族」なる存在の死であり、冷酷な「あたらしいイク族」の誕生である。
 だがこれもまた変化には変わりなく、適応競争を勝ち抜くために彼らが導き出した最適解なのである。それを一体誰が責められようか? 怪物は環境という構造であって、彼らという中身ではない。人間もまた結局は動物でしかないのだ。

 何年間にもわたり共に暮らし、彼らを観察し続けた人類学者ターンブルの地を這うような、それでいて読み物として成立している文章が冴えている。西欧人による他文化への言及には「ハイハイ、白人様白人様」と揶揄したくなることが往々にしてあるが、彼の文章にはそんな気配がない。
 恐らくは私たちの世界で言う「いい人」である彼は、イク族と暮らす中で何度も自問自答し、七転八倒し、呻きながらも、それでもイク族から目を離さない。彼らを特殊だと切り捨てることなく、自分自身の、そして自分たちの問題だと考え続ける。読んでいるだけで、胃に穴があきそうである。
 家族に愛を求めた「狂人」アドゥパ、他人の役に立つことを喜びとしたカウアル。若いが環境変化への不適合者である彼らは死ぬ。その死体は、仲間であるはずのイク族の誰にも何の感慨も与えずに捨てられる。
 谷に転落した盲目の老婆ロオノは、他のイク族の見世物となる。起き上がることも出来ずに手足をばたつかせる彼女の姿は、実に滑稽であったから。ターンブルは彼女を助けるが、その行為が彼女に過去の「かつてのイク族」の温かい日々を思い出させてしまう。ターンブルは己の行いに疑問を持つ。どちらにしろロオノにはもう時間がないのだ。同じ死ぬのならば、あのまま放置したほうが彼女は幸福だったのではないのだろうか。そうすれば「あたらしいイク族」として、見世物となって他人を笑わせながら、そしてそのことに自分も笑いながら死ねたのではないか?
 彼はまた弱った老人ロイアンゴロクを助ける。イク族の元を去ることになったターンブルは、彼のために何ヶ月分ものポショを警察の分署に預けた。足りなくなる頃にはまた買えるように金を送ると約束して。けれどロイアンゴロク老人の寿命が残り一ヶ月くらいだろうと予想したときも、ターンブルにはもはや何の感慨もわかなくなっていた。そして老人は死んだ。二週間も経ってはいなかった。原因は餓死。息子ロイアムカットが老人のポショを横取りしたのであった。


 私たちは、人間は、動物は、いや、生物は、一体何のために生きているのだろうか? 死ぬために? ならば、いっそ生まれてこなければ良いのでは?
 『ブリンジ・ヌガク』に登場する極限を生きるイク族の姿は、私にそんなことを考えさせる。彼らはどうして生きているのだろうか。
 彼らの日々は過酷な生存競争である。誰かと一緒にいる時も、彼らは相手の顔を見ない。見るのは相手の行動だけである。何故かと言えば、彼が失敗するのを期待しているのだ。それを笑う機会が訪れるのを待っている。
 笑い、と言うのが本書で印象に残る。それは「笑い」と書くよりも「嗤い」と書く方が相応しいような、他人を見下げる、肯定的な意味を欠く感情の発露ではあるが、笑いは笑いであり、それは人間固有の感情表現だと言われている。
 他人の無様を笑うとき、彼らは生を実感するのだろうか? あるいは優越感を抱くのだろうか?
 ターンブルも抱いたこの問いに、彼は答えを見つけることが出来なかった。彼に出来ないことが、私に出来るはずもない。けれども笑うからには、その瞬間には何かしらの感情が存在しているのだろう。
 彼らは感情を持つ生き物であり、人間なのだ。私たちと同じ。彼らと私たちを分けるのは、ただ環境に過ぎない。犬と猫が今では全く別個の存在となったように、彼らと私たちの間にもまた距離が出来てしまったのだ。だが、私たちもまた彼らと同じ変化を蒙る可能性はあったのだ。そしてこれからもある。

 環境は変化するものだ。そして生きていくからには、それに適応しなくてはならない。けれど、その変化が他の人間の手による人工的なものだと言うのが強烈である。
 一度はイク族の元を離れたターンブルだが、雨の到来と豊かな実りを耳にして舞い戻ってくる。そして彼はそこでイク族の変化が一時の豊かさで取り戻せるような、そんな甘い可逆的なものではないことを知る。彼らの文化は、私たちが人間性と呼ぶものは、もう回復不可能なまでに壊れてしまったのだ。
 ターンブルがもはやイク族に存在し続ける価値があるのかと訝しむところまで達したのは、本書出版の1972年よりも前のこと。飢餓で彼らの人口は激減しており、生物的にも存続は難しいかと思ったが、検索してみたところ、その後も彼らは立派に生き続けたようだ。キリスト教会の司祭による、カラモジャ地方での2002年から約3年間の活動報告を見つけた。
 カトリック大阪教会管区部落問題活動センターたより 夏季号 07年7月No.9(PDFファイル)
 どうやらターンブルが居たころと変わりなく、今日も彼らは生きているようだ。彼らが被害者なのか加害者なのか、それとも両方なのかは見る人の立場や信条によって異なるだろう。だから私はその点には触れない。
 だが彼らは間違いなく、人間の極限の「可能性」の一つを身をもって示したのである。それが善か悪かなんて判断は、ただ愚かしいだけだ。


 本書の後ろの方に白黒ながら何枚かの写真と、簡単な登場人物一覧が付いている。
 途中までこの存在に気がつかず、次々と登場するイク族の馴染みのない名前に辟易としてしまった。これから読む人は、これを手掛かりにすると便利かと思う。
 訳者も言っているが、アトゥムの写真がないのが何とも残念。この食わせ者の顔を拝見したかったのに。
 著者が帰った後、彼はどう生き、そして死んだのだろうか。


参照URL:
National Book Foundation
全米図書賞(Wikipedia内)


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 National Book Awards 2011は今月16日にファイナリストを発表するそうな。
 今公式サイトにアクセスすると、左上でカウントダウンしているのが見られます。


 ヨメレバを使って書影を貼ろうと思ったが、どうも上手くいかない。ISBNが登場する以前の古い本は駄目なのだろうか。
 そんなわけで、今回もG-toolsを使用。ポイントとしては、どっちにしろ書影は無理だったというところ。
Theme:読んだ本。 | Genre:本・雑誌 |
Category:星4つ:★★★★☆ | Comment(0) | Trackback(0) | top↑ |
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