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映画『アクト・オブ・キリング』感想:★★★★★

2014.05.17 Sat

アクト・オブ・キリング

 ドキュメンタリーを一作。生まれて初めて、もう一度見たいと思った。


 人が人に話すとき、そこには必ず演技が含まれているのではないだろうか。見栄、虚勢、泣き落とし、私達はいつだって演じている。
 私が語る言葉の全てが真実ではない。そこには私の真意が反映されているだろうが、しかし全てではない。言葉は嘘だ。言葉だけではない。顔の表情、手の動き、目の動き、全てが嘘だ。演技だ。
 私達は人の目の前では素直になれない。他人の目だけではない、自分自身の目すらも気になる。
 心が発した生の感情はそうして押し殺される。加工され圧縮され、もはや自分ですら分からなくなる。
 だが一瞬だけ、抹消したはずの素の感情が見える時がある。それがうっかり姿を見せる時がある。その瞬間を、この映画は鮮やかに切り取っている。


 主人公となるのは、アンワル・コンゴ。50年前インドネシアで虐殺を行った実行犯である。彼は何人も何人も殺した。そして罰せられてはいない。孫と一緒に幸福に暮らしている。
 アヒルの子どもの足を折った孫に、アヒルに謝るように促す良いお爺ちゃんである。今は。けれども50年前に大量殺人を行った。彼が殺した人数は1000とされる。

 1965年から66年にかけて、インドネシアでは大量虐殺が行われた。軍事クーデターに伴う政変が原因だ。共産主義者と華僑が虐殺の対象者となった。彼らには、ならずもので、残酷、殺されるべき相手だとのレッテルが貼られた。そうして虐殺は正当化された。
 以後、政権交代は行われていない。虐殺を表から裏から指示した人間達は、今も変わらずそこにいる。
 ジョシュア・オッペンハイマーは、この50年前の虐殺被害者を取材していた。だが当局による妨害に悩むこととなる。
 そんなジョジュアに、被害者の一人が言った。加害者にインタビューをしてみて欲しいと。
 虐殺の実行犯、それも現在もなお裁判にかけられることなく平和に暮らしている相手に取材が受け入れられるわけがないとジョシュアは当初考えたのだが、しかし彼のインタビューは簡単に受け入れられる。ジョシュアの前で彼らは得意げに当時の己の犯行を語るのだった。
 そのあまりの屈託のなさに衝撃を受けたジョシュアだが、彼は気が付いた。彼らの屈託の無さは、楽しそうに語る姿そのものこそが、彼らの内心の不安の強さを表しているのではないか、と。

 そんな考えの末、ジョシュアは加害者の一人であるアンワル・コンゴに提案を持ちかける。映画を撮ってみないか、と。彼が行った虐殺を再現する映画を。自分はその映画の製作過程、そしてそれを見る彼らの姿を撮ってドキュメンタリーを作るから、と。
 アンワルはジョシュアの提案にのり、さっそく仲間と共に己の映画作りに邁進する。アメリカ映画好きの彼は、カメラに映る自分が格好良く見えるかどうかに拘る。50年前の虐殺の際にだって、殺し方のヒントを映画から得ていたくらいの映画狂なのだ。
 けれど、カメラの中の自分を見る内に、アンワルは徐々に変化していく。かつての虐殺を再現する自分を見る自分。無害化した過去が、生の姿で現在へと甦る。
 そんな彼を、ジョシュアのカメラが追う。そして私たちが見るのだ。それがこの映画だ。


 一応言っておくが、私はアンワルに共感や哀れみを施すつもりはない。
 そして人間とは人間を殺す生き物だと思っている。私たちは人殺しだ。潜在的に。
 科学の世界では再現性があれば真実だと見做される。歴史を振り返れば、人間が人間を殺した事実には枚挙に暇がない。再現性があると見做すには充分だろう。ならばそれが真実なのだ。







 アンワルはジョシュアのドキュメンタリーに巻き込まれたことで初めて罪悪感を持ったわけではない、と私は思う。その大穴は既に、過去の彼自身の手によって穿たれていたのだ。
 だが彼はそれを認めることが出来ず、ベニヤ板を乗せたのだ。そんなものでは穴の入り口は塞げても、穴そのものを塞ぐことなど出来はしないのに。
 それとて彼は知っていたのだろう。知っていたけれども、認めたくなかったのだ。そもそも穴の深さや大きさを考えることもしたくなかったのかもしれない。だからベニヤの如き弱いもので充分に塞げると思いたかったのかもしれない。

 アンワルは今まで、ベニヤ板を補強することで生きてきた。かつての虐殺を肯定するのも、その一つだ。そしてだからこそ、ジョシュアの提案に乗ってしまったのだろう。
 ジョシュアというアメリカ人、第三者の前でベニヤ板の下の大穴の存在を否定することが出来れば、それが事実となる。生の感情と過去は加工され、彼に無害なものとなる。
 だがそうはならなかった。事態が大きく動くのは、スルヨノが登場してからだ。

 スルヨノはアンワルの隣人であり、アンワルが出した映画の出演者の募集に手を挙げた一人だ。
 彼の養父は、50年前に殺された。華僑だったからだ。殺したのはアンワルの仲間、もしかしたらアンワル自身だったのかもしれない。
 スルヨノの養父はある日どこかへ連れ出され、死体になって帰って来た。まだ子どもだったスルヨノと祖父がその死体を運んだ。スルヨノが道の横に墓を掘った。まるで家畜の死体のように。誰も手伝ってはくれなかった。
 そうスルヨノはアンワルとその仲間たちに語る。笑顔で。
 だが笑顔が消えた瞬間に現れるスルヨノの表情は壮絶だ。彼はアンワルたちを許していない。50年前の虐殺に関与した連中が政権に座り続けるインドネシアでは、彼ら被害者が悲鳴を上げることは不可能である。だから彼らは黙っている。けれども決して許した訳ではない。
 そのことはアンワルたちもどこかで理解している。だからこそ、彼の存在はアンワルたちに変化をもたらしたのだ。

 スルヨノが口を開く前に、アンワルたちかつての加害者であり映画の制作者である数人はこう言っていた。「事実を撮らなきゃならん。事実を残さなけりゃ」。
 だからスルヨノは口を開いたのだろう。彼の話は事実だ。だから撮られるべきだ。残されるべきだ。アンワルたち自身がそう言ったのだ。
 スルヨノの提案はアンワルによって一度は拒絶される。要素が多すぎて今更追加するのは無理だ、というのが表向きの理由だ。
 だがこのドキュメンタリーの白眉はその後にある。一度は却下したスルヨノの提案を、アンワルは部分的になら、と受け入れるのだ。そして言う。「残酷なのは共産主義者ではない。残酷なのは自分たちだ」と。
 なんという構図だろう。
 加害者たちにまっすぐに立ち向かうスルヨノの姿。彼の提案を抹殺することなく、取り上げるアンワル。壮絶である。

 そして彼らは被害者役を演じる。アンワルがかつて実際に行った方法で殺される役だ。
 それによってスルヨノは養父の最期に思いを馳せ、アンワルは自分が殺した被害者たちの気持ちに初めて寄り添うこととになる。ベニヤ板は壊れ、かつて彼が自身に穿った罪悪感という地獄が口を開ける。


 この映画の最後、自分殺されるシーンを見るアンワルの姿は、直視に堪えない。彼はそれを、まだ幼い孫と見ようとする。残酷なシーンなのにだ。
 その姿には必死さが滲み出ている。彼が被害者を演じた際に感じた恐怖が虚構のものであることを、強調しようとしているのだ、彼は。それが虚構、作り物であること、本当ではないことを必死に確認しようとしている。
 だが彼は失敗する。彼が感じた恐怖は本物だ。そして彼はかつてそれを与える側であったのだ。その事実に耐えられない彼は、己を被害者の立場に置こうとするが、しかしそんなことは不可能だ。彼は罰せられることもなく、今もこうして自由に生きているのだから。
 アンワルに罰は下されていない。アンワルに禊ぎの機会はない。彼の罪悪感は贖われる機会を得られない以上、そこにあり続ける。
 かつて彼が数多の人間を殺した屋上で、冒頭では笑顔でその様子を再現していた場所で、彼は吐く。吐く。



 合間合間にある、割とどうでも良いシーンが、いちいち映像美に長けていてなんかムカツク。
 アンワルの右腕であるヘルマン・コト、マツコ似のデブ、が映画のために女装しているのが意味不明すぎて、自分が感じる感情の名前が分からない。最後に出てくる悪夢の化身(?)とか、マジで一体何なの?
 ちなみにこれら謎の多い彼らが作る映画だが、元から一本の作品として完成させる予定はなかったのだそうだ。場面だけを撮って終わりとの前提があったからこそ、彼らは好き勝手に映像を製作したのだろう。しかしそうなると、アンワルが悪夢を見るシーンを撮る理由が分からなくなる。あれは何を表しているのだろうか。

 ちなみにこのマツコ似のヘルマン、このドキュメンタリーが撮影されている間に選挙に立候補する。その選挙活動もカメラに収められることとなるのだが、至って普通に賄賂が横行していてもう糾弾する気にもならない。
 立候補者たちの集会に集まるのは、金を貰ったからだ。立候補者を支援しているからではない、ただのバイトだ。だがそれでも彼らは立候補者のファンであるかのように振る舞う。口先と本心の乖離は著しい。
 50年前の虐殺に関して、罪を担うべきは「共産主義者」なのか虐殺の実行者なのか、きっと本当は誰だって分かっているのだ。けれどもその気持ちは表現されることなく、彼らの口は加害者たちを肯定する。どこまでが本気で言っているのか分からない。

 この凄まじい差異が、この作品で多少なりとも緩和されると良いなと思う。私たちの言葉は嘘だ。だが真実に近づけるべきなのだ。そうでないと、私たちの心の居場所がなくなってしまう。
 ジョシュア・オッペンハイマーたちはこの作品を、インドネシアの人々が無料で見られるようにインターネット上で公開している。パンフレットの記載によれば、既に350万回以上ダウンロードされている。
 ヘルマンはオアンチャシラ青年団を辞め、このドキュメンタリーを公式に上映した。スルヨノは撮影後まもなく病死した。アンワルは完成したこのドキュメンタリーを見ることを恐れていたが、最終的には見た。彼は絶句し、そして言った。「自分のしたことをただ描くのではなく、そのことの意味が描かれていて安心した(パンフレット、p21)」と。

 アンワルは果たしてこれからどうして生きて行くのだろう。彼は再度の逃避に出られるほどに弱いだろうか。それとも逃げ出せないほどに、強いのだろうか。


覚え書き(本に纏わるあれこれ):映画感想
より詳しくは右カラムのカテゴリから選択してください。


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