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『未来の回想』感想:★★★★★

2014.01.22 Wed


未来の回想

シギズムンド・クルジジャノフスキイ
松籟社 2013-10-22
売り上げランキング : 255914
by ヨメレバ


 時間は誰にとっても均等に流れる……だがなんとか、誰かの名言らしきものを聞いたのは一体いつだったのだろう。
 チックタック、チックタック、ただ只管に流れ行く時間は圧倒的な強者である。誰もが彼女に跪き、反逆は許されない。
 だがそんな時間に勝負を挑む者がいた。マクシミリアン・シュテレル。本書の主人公だ。


 子供に時計に、そして時間という概念に取り付かれた彼は、全てを時間に捧げる。
 他のものを投げ打って研究に、との形容句はシュテレルには当て嵌まらない。彼には時間しかなかったのだから。
 友人関係も人間性すらも持ち得ず、まっすぐに時間と取り組まんとするシュテレルではあったが、しかし、それを時代(それは時間の集合体だ)は許してはくれない。
 シュテレルはドイツとの戦争に駆り出され、革命の波にぶつかり、彼の「時間切断機」の研究は前途を阻まれてしまう。それは征服されることを拒絶する時間からの抵抗であった。
ノートの一冊に、シュテレルはこう苦々しく記している――「今日二二歳になった。ぼくが呑気に瞑想している時間に、時間は時間をめぐる闘いにおいて時間を稼いでいる」。この数行後にはこう書かれている――「時間は過ぎ去るがゆえに常に勝つ。ぼくが時間から意味を奪うよりも早く、時間がぼくから生を奪ってしまうのが先か、それとも……」(p.25-26)



しかし、第三の可能性があります――私、マクシミリアン・シュテレルは拘束服からも拒絶される狂人であり、私によって語られたことはみな譫言で戯言だという仮説です。ひとつ、衷心からの助言をさせてください――この最後の仮説を採ったほうがよろしい。それが一番有益かつ堅固で、安全ですから。(p.119)


 彼の一部に共鳴する人物はいても、彼そのものを理解し彼そのものと共鳴し得る人物は登場しない。
 シュテレルにとっては、そんな人物の有無などどうでもいいことのはずなのに、読んでいる身にはなんとも切ない。
 それはそこに作者クルジジャノフスキイの姿を見てしまったからだろう。彼はこの『未来の回想』を世に出すチャンスを見出せぬままこの世を去ったのだから。何の因果か、執筆から60年経って初めて、その原稿は引き出しから抜け出し日本語にまで成ったのだが。







 時間に対する執着以外の全てをどこかに置き忘れてきたかのようなストイックさを見せるシュテレルは、作品中一度もブレることがない。
 ようやく多少なりとも彼を理解得る人物が現れたと思ったのも束の間、彼がシュテレルに書かせた回想録「未来の回想」は出版社から拒絶されてしまう。
 一人だけで完結していたシュテレルの世界は、世間と繋がりえるかと思われたのもただの一瞬、結局はまた一人へと立ち戻る。

 孤独、と呼ぶにはあまりにもストイックなそれ。理解されたいと欲することも、理解され得ると期待することもない孤立した彼。
 果たしてシュテレルは、時間を征服出来たのだろうか。

「(略)少なくとも私には、どうも食い違いがあるように思えるのです――つまり先走る時間に滞在していた間の時間の経過と、経過したごく一般的な、俗に言うところの時間の質の間にです。私の記憶によれば、このtとこのtは述語の質が異なります。ともかく、なんで成功できたのでしょうか……?」
(略)「どうして成功したのか?(略)もちろん、tの内部のtを算定することは簡単なことではありません。しかしあらためて計算してみると、こう結論せざるを得ません――私は成功していない――(略)」
(p.118)


 シュテレルが乗り越えようとした「時間」、シュテレルが生きる主観としての「時間」。作中人物であるシュテレルが書いた回想録としての「未来の回想」、現実世界でクルジジャノフスキイが書いた本作「未来の回想」。
 時間という概念が重なる本書では、「未来の回想」と呼ばれる作品もまた複数の位相を持つ。入れ子構造ではない。構成する各々が、それぞれ重複あるいはオーバーラップしている。

 そもそもこの作品「未来の回想」自体が特異である。作中の語り手が誰かは明かされていない。どうやらシュテレルと実際に接触があった訳ではなさそうである。
 この語り手は、シュテレル自らが僅かに残した資料と、また彼の知人が後に書いたシュテレルの伝記を元手に、語っているのである。しかもどちらも完璧ではないとも記されている。

 つまるところ、シュテレルその人ではなく、時間に征服された或いは時間を征服したが故にもはやこの時間には存在していないシュテレルというかつての存在を、不完全な資料から再現したのが本作なのだ。
 小説など虚構だ。だがその中ですら、シュテレルの姿を等身大では見せないその姿勢にクルジジャノフスキイの精神性を見た気がする。

しかし、あなたが……この仮説に納得できないのなら、こう考えてみてもいいでしょう――結局、マシンは現実に達せず、t時間が投げる影にあたって砕けちってしまったと……そして……いま、周囲にいる人々を観察してみると、こういった感慨が生まれてきます――彼らにはみな、いまがないのではないか――現在をはるか後方に置いてきてしまったのではないか――その意志と言葉はどこからか投影されたものに過ぎず、だいぶ前にねじを巻いた時計がチクタクいっているようなものではないか――その生さえも、一〇枚のカーボン紙をはさんでタイプした紙みたいにぼんやりしたものなのではないか……。(p.118-119)

 そう語るシュテレル自身の生は、一体どうだったのだろう。
 それは本書で明かされることはない。




 私って、こういう小説が好きなんだなー、と妙にしみじみしてしまった一冊。
 理解出来たんだか出来なかったんだか、私が読み取った内容は本当に小説に「書かれて」いたことなのか、それとも書かれていた単語から私がでっち上げたものに過ぎないのか。
 全ては曖昧にたゆたい、手のひらで掬い上げた水のように隙間からサラサラと流れ出して残らない。 
 そして私は前述の、それが書かれたものか否かという問題に決着をつける気が一ミクロンもない、という事実を再確認したりもした。

 基本的に私は白黒ハッキリ付けないと発作を起こして死ぬタイプの人間であったので、ここ最近(というほど最近でもないが、このブログを始めたあたり)の指向性の変化には、己の今までの考え方に対しての強烈な否の反映が見られて、我ながら大丈夫なのかと他人事のように思ったりもするわけです。

 とは言えども、時折「白黒ハッキリ付けないと死ぬ」病の発作を起こしているあたり、以前の考え方全てを抹殺したわけでもなく、全ては緩やかに統合されているのでしょう。
 まぁ何事も綺麗サッパリ抹殺するのは難しいしね。と妥協するから私は駄目なのかもしれない。
 『オートラント綺譚』、『ブラインドサイト』と最近は好みの作品に当たっているので、今後もなにとぞ宜しくお願いします。


ジャンル別:幻想小説|ジャンル別:SF小説
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