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『ホフマン短篇集』感想:★★★★★

2012.07.23 Mon


ホフマン短篇集 (岩波文庫)

ホフマン 岩波書店 1984-09-17
売り上げランキング : 246430
by ヨメレバ


 既に読んだことのあるものが多いのだが、それでもやっぱり面白い。ただ翻訳は以前に読んだものの方が好みかな。

 収録されているのは、以下の6作品。
・「クレスペル顧問官」
・「G町のジェズイット教会」
・「ファールンの鉱山」
・「砂男」
・「廃屋」
・「隅の窓」
 挿画はアルフレート・クービン。
 分かりにくいが、表紙は「G町のジェズイット教会」の挿画としても使われている。


 ホフマンの描く幻想と怪奇には特別の背景は不要だ。それは現実のほんの少し奥、日常の片隅で展開される。
 物語を描くのは、少し変わった人たち。彼は「普通」とは異なっているが、多くの場合本人はそのことを不幸だとは感じていない。
 だが「普通」ではない彼らは、圧倒的な質量を持つ現実と日常の「普通」の中にいつまでも存在してはいられず、物語の終末に至って淡く儚く消え去っていく。
 彼らが遺すのは、ほんの僅かの痕跡だけ。しかしそれもまた、語り手や僅かな登場人物にしか感知されることはなく、またその跡も速やかに吹き散らされて失せる。








 「クレスペル顧問官」では、タイトルにもなっているクレスペル顧問官こそが、少し変わった人物である。
 彼はかくかくと不自然に動き、けれどもそれは安定感を伴ってもいる。話し方にも落ち着きがなく、発言の対象はあちらこちらへと飛ぶ。それでいて彼は才能豊かで知識に富んだ、特に音楽に関しては、能力のある人物なのであった。
 H町を訪れクレスペルと対面した「私」は彼の異様さに面食らうが、彼が家に監禁していると噂される才能溢れる歌手のことを探るために、クレスペルに取り入ることを決意する。

 「私」の目論見は上手く行った。
 だがまだ若い「私」が青臭い正義漢を振りかざした結果、知ることとなるクレスペルと美しい歌姫の真実とは。
 私の迸るような健康的な若さと、クレスペルの奇妙に捻れ、老いた姿とが対象を成す1篇。



 不慮の事態で田舎であるG町に数日間滞在せざるを得なくなった「私」が、知人の伝手を辿りジェズイット教会で壁を大理石に見せるための贋の装飾を行っている画家ベルトルトと出会うのが「G町のジェズイット教会」である。
 ベルトルトの優れた技能を見知った「私」は、彼はこのような偽物の大理石を描くような画家もどきではなく、本物の画家に違いないと確信する。だがどうして今やここまで落ちぶれてしまったのだろうか?
 それを知るために「私」は、理由を知っているらしいジェズイット教会のヴァルター教授に食い下がるのだが。

計られたものだけが人間にかなうものであり、量るのことのできないものは悪ですよ。人間を超えたものは神にちがいない。さもなくては悪魔です。(p.61, 「G町のジェズイット教会」)


 計ることも量ることも出来ないもの。それは感情なのではないだろうか。
 真摯に画家になろうと足掻いていた若かりしベルトルトにもたらされたもの。それは彼の成功と崩壊の切っ掛けとなったのだった。果たしてその正体は神なのか、悪魔なのか。



 3篇目は読むの何回目だよ、な「ファールンの鉱山」。
 給料と様々な異国のお土産ではち切れそうなポケットを携えて、長い航海からエーリスはイェーテボリの港に戻って来た。
 それなのに、いつだって彼の帰りを待っていてくれるはずの母は、既に亡き人になっていたのだった。
 航海の成功を祝ってお祭り騒ぎに浮かれる仲間たちの中で、ただ一人エーリスは項垂れる。仲間の激励も、可愛い女の子の慰めも彼の心にまでは届かない。
 そんなエーリスに声を掛ける老人がいた。彼はエーリスに海を棄てて地の底へ、鉱夫にならないかと誘う。そちらの方がエーリスの気性に合っているとまで言うのだった。
 蒼い海と波しか知らぬエーリスは驚愕する。彼にとって鉱夫とは、地下深くの暗闇をモグラのごとく這いずり回る醜悪な怪物でしかなかったのだから。
 だが老人はエーリスに鉱山の尊さを語り、ついには彼をファールンの鉱山へと旅立たせてしまう。
 まるで老人に背中を押されるように案内されるかのように辿り着いたファールンで、エーリスは美しい少女ユッラに一目惚れしてしまうのだった。

 地上ではユッラへの愛に燃える極普通の青年であるエーリスの、地下での豹変ぶりが切ない。
 鉱山での「狂気」はついには彼の地上生活までをも蝕み、そして物語は破綻を迎える。
 だがユッラのエーリスへの愛情により、長い歳月の末に破綻は回収され、二人は一つの結末に辿り着くのだ。



 続いては「砂男」。一人の男と女の愛情の物語という点では「ファールンの鉱山」と同一なのだが、二人の辿り着く末は異なる。

 砂男とは、夜になっても眠らない子供を罰しにくる怪物である。それはナタナエルの子供時分の記憶に重い影を落としていた。
 彼の父が死ぬまで、家には時折コッペリウスという弁護士が訪ねて来ていた。母は彼の来訪を察知すると直ぐに「砂男」との口実を設けては、子供達を寝室に押し込むのだった。
 だがそんな生活も父の死をもって終わる。砂男、コッペリウスが訪ねて来た夜に、突如爆発が起こり、父は帰らぬ人となったのだから。
 以後、ナタナエルはコッペリウスのことを忘れていた。
 砂男、コッペリウス、父、覗き見た二人の秘密の実験、そして父の死という一連の異常な出来事は終わり、彼は健やかな精神を持つ母親の庇護下で成長し、そして優れて常識的なクララという婚約者まで手に入れていた。
 だがそんな普通の幸福は、ある日突然に不安定に揺れ始める。
 ナタナエルが母やクララと離れて暮らす下宿に、晴雨計売りがやってきたのだ。その売り子コッポラは、どこかコッペリウスに似ていた。

 コッペリウスの面影との再会が、ナタナエルをかつての異常世界に引きずり込み、そして彼の世界の全てがその価値を変えることとなる。
 それはまるで鏡に映された像が実物とは左右を異とするかのように。


 わたくしたちの心に意地悪い糸をたらしてうまうまとひっかけて、普段なら足を踏み入れないような危険きわまるところにわたくしたちを引きずっていく暗い力があるとしましょう。もしそういう力があるとしたら、自分のなかにあって、自分自身と同じかたちをとり、つまりはわたくしたちそのものになるにちがいありません。(p.166, 「砂男」)


 「わたくしたちそのもの」に化けた暗い力は、意思の力と日常生活の活力により打ち砕くことが出来るとクララは言う。
 だが、どちらが「わたくし」で「わたくしたちそのもの」なのか、果たして区別がつくものなのだろうか。
 鏡の表面に手を突いて覗き込みながら、どちら側の自分が自分なのか、見極めることが出来るだろうか。
 区別がつくとしても、果たして区別したいとナタナエルは望むのだろうか。この揺らぎはクララには決して理解出来ないものなのだ。



 「廃屋」も既読。
 千里眼と揶揄される夢見がちな青年テオドールが去年の夏に滞在した**n市で遭遇した出来事の話。
 人気が多く高級店が軒を連ねる楽しい大通りの一角に、ただ一軒古く見捨てられたかのような廃屋がひっそりと佇んでいた。周囲が明るく賑やかなだけに、その廃屋はテオドールには実に気になるのだった。
 同じように興味を持ってその家を眺めているP伯爵と情報を交換しながらも、テオドールは日々の散歩の折に廃屋を見つめ続けた。
 するとある日、廃屋の二階のカーテンが開いて、その影から若い白い腕が現れたではないか。テオドールの好奇心は嫌が応にも高まり、ついにはその白々とした腕に恋にも近い感情を抱くようになっていく。



 以上は、圧倒的な逞しさと活気を有する日常生活、いわゆる普通、に一瞬生まれては消え去っていく幻想と怪奇の物語であり、主眼は儚き異常に定められているが、最後の「隅の窓」はその視点を前者の日常生活に据えている。
 主人公である「私」が訪ねていく従兄は、病気のために今や両足の自由を失い、一人では何も出来なくなってしまっている。
 だが彼にはまだ、自室にしている屋根裏部屋の窓からその下で開催される市を眺めては、想像力の翼を広げる自由が残されていた。
 「私」と並んで市を行き交う人々を見下ろしながら観察し、そこに物語を付加していく楽しみ。だがそれが従兄にとって娯楽となるのは、彼がもうその中に戻れないからなのだろう。
 彼は今や普通から隔絶されている。彼のいるのは屋根裏部屋の窓の奥。彼が窓の向こうに見る市の風景こそが日常であり、そこからガラスと建物の高さによって遮られている彼は異質の存在なのである。
 だからこそ彼は「私」、まだ平凡な日常生活を送っている、を伴いながら窓の反対側に物語という彩色を施しては、己の腕前を自慢し、また自分自身を楽しませる、あるいはその孤独な身の上を誤魔化しているのだ。

 けれども孤独は彼、おそらくはホフマン本人、だけのものではない。
 手を伸ばしてはガラスに接触し、己と世間との間に隔絶のあることを知る者は決してホフマンだけではないだろう。
 自分の信じるものが正しいのか、自分自身とは何者かと問いかけては磨き上げられた鏡に鼻を押しつけ覗き込む、足下の怪しい人間とて、いつの時代も存在することだろう。
 そのような揺らぎを感じさせない社会などあり得ず、そしてそのような揺らぎを許容する時代もありはしない。

 日々髪型を整えるために鏡を覗き込みながら、こちら側の「わたくし」が「わたくし」であり、あちら側は虚像に過ぎないことを確認しながらも、いつかその常識にヒビが入ることを密やかに願い、自分の周囲にいつからか張り巡らされた透明なガラスに気が付かぬふりをしながら、その存在にどこか安堵する私という異常を微かに認識しながらも、やはり私は今日もまた普通の顔をして平凡な日常を送り続けることだろう。


レーベル別:岩波文庫|作者別:E・T・A・ホフマン
より詳しくは右カラムのカテゴリから選択してください。


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 「砂男」に出てくる晴雨計って何だろうかと検索してみたところ、右のような商品がヒットした。
 ナタナエルが売りつけられそうになったのもこんな感じの代物だったのだろうか?
 時代的に違うかなー。


 実は「悪魔の役を上手く演じられなかった結果、悪魔に怒られて強制的に入れ替わらされる話」が読みたくなってこの『ホフマン短篇集』を開いたのだけれど、見ての通り、そんな話は収まっていないのでした。

 「あれー、ホフマンじゃなかったっけ? 岩波文庫の短篇集に入ってたと思ったんだけどな。もしかしてホフマンスタール……なわけあるか」と「でも確実に持ってる筈!」との記憶を考えながらも面倒になって寝た翌日にふと「もしやゴーチェ」と閃いたのが正解でしたよ。「二人一役」っすね。
 ホフマンじゃないと気が付いた時点でゴーチェを発想して当然だと思うよ、私。

 ちなみに「二人一役」は岩波文庫だと『死霊の恋・ポンペイ夜話 他三篇』に収録されております。
 

Theme:最近読んだ本 | Genre:本・雑誌 |
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