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『中世の身体』感想:★★★☆☆

2012.03.30 Fri


中世の身体

ジャック ル=ゴフ 藤原書店 2006-06
売り上げランキング : 174352
by ヨメレバ


 中世を主なフィールドとする歴史家ル=ゴフが、文化ジャーナリストのニコラ・トリュオンの協力の下に書き上げた1冊。
 原著ではトリュオンの名前も入っているようなのに、日本語翻訳版のこちらからは名前が削られていてやや不憫。

 現在のヨーロッパを産み出す源泉を中世に見いだし、その諸々を実際に取り上げて色々と語ってはいるが、踏み込みは浅い。
 この内容でこの値段はちょっとなぁ、と正直なところ思わなくもない。が、数多の図版は全て日本語版オリジナル、それもその多くが翻訳者の一人である池田健二が撮った写真だと言うのだから驚き。
 これらの図版が作者が示したいものとピタリと一致しており、本書に分かりやすさという魅力を与えている。その一点だけで単行本である価値があるのかもしれない。








 私たちは物質をあるがままに視ることは出来ない。視るという行為は単なる感覚器官である目ではなく、脳の仕事である。
 何らかの物体を認識した瞬間に、そこには意識しようかしまいがお構いなしに「価値」が付与される。無価値なものは認識されすらしない。
 毎秒毎秒、私たちは何を視るか、何を視ないかを選択している。
 そんなややこしい瞬間瞬間を生き続ける私には、自明のことなど何も存在しはしないのだ。
 視ることだけではない。眠り方、歩き方、座り方云々その全てに規範があり、お手本があり、理由があり、強制がある。私が横を向いて眠るのはそうして眠れば金縛りにならないと知ったからであり、私が脚を揃えて座るのはそうするべきだと言われたからであり、私がそれらを受け入れるのは、反対する理由が見つからない或いは面倒な争いに巻き込まれたくないからである。
 全てには前提があり、私は生涯を通じてそれを学び、吸収し、反発し、踏みにじり、厳密に守ることを強いられる。その組み合わせは歴史的なものであり、決して不変ではない。
 私の認識するもの全てが私の認識そのものの支配下に置かれ、同時に私の認識そのものを変質させる。そこには例外はない。私の「体」という、私そのものとさえ言える物体でさえ。


 ル=ゴフが本書で示そうとするのは、現代の西洋の源泉である中世での「体」の認識である。その認識は変容しつつも確かに現代まで受け継がれていると彼は言う。
 だがそれを記述するのは一筋縄ではいかない。対立する概念がそれぞれ並び立ち、複雑な力学を演じる。
 キリスト以前から不浄なものとして忌み嫌われてきた血液はしかし、人の肉体を纏った神の子キリストが人間の罪のために流す神聖なものでもある。
 女はアダムに禁じられた林檎に手を伸ばさせるイブ(本書ではエバ)であり、それと当時にキリストを生む聖母マリアでもある。
 肉体は魂を閉じ込める忌まわしい衣でしかないと蔑まれながらも、王や聖者のもたらす奇跡は肉体上に現れた病に対してその威力を見せる。
 体を精神の支配下に置くための断食の前には、体が奔放に振る舞う謝肉祭がある。謝肉祭の後には必ず禁欲期間がやって来るが、しかし謝肉祭の荒々しさは毎年蘇る。
 アリストテレスが人間にしか見いださなかった笑いは、しかし悪魔の側に置かれる。口から漏れるのは神への冒瀆の言葉かもしれず、神への祈りの聖なる文句かもしれない。

 全ては矛盾し、緊張を孕む。相容れない概念たちはぶつかり、あるいは両立しながら近代へと流れ出す。その先には現代の西洋社会が繋がっている。
 ル=ゴフが本書で見せるのはほんの一例に過ぎず、またその事例はフランスに偏っている。そももそもそれは西洋の歴史であって、私が位置する日本はまた異相を違えている。
 キリスト教の内包する階層を強制する源が私には理解しがたく、そして上(人体では頭)が何よりも尊いとの思考の元も納得し難い。
 だがそれでも図版の多い本書はそれなりには面白い。
 身体に歴史を見たル=ゴフの先達たちの業績を纏めた序も手引きとして役に立つ。


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出版社別:藤原書店|ジャンル別:歴史
より詳しくは右カラムのカテゴリから選択してください。






 個人的には中世フランスに於ける癩病や黒死病の扱われ方が興味深かった。
 これら二つと並んで印象的な病にカタプレシーがあるのだが、これもまた歴史のどこかに座を占めていたりするのだろうか。あるとしてももっと後世かな。


 以下、無駄に長い独り言。


 この手の歴史を俯瞰する書物を読む度に、現在の地点が揺るぎないゴールとして設定されているように思えて違和感を覚える。
 今までの時間の経過とそれがもたらした変化が現代に至っているのは確かだが、この現代が唯一無二の揺るぎない必然的な結果かと言えば、そんなことはなくただの偶然の産物でしかないと私が考えているところに問題があるのだろうか。
 現実とは数多のifを排除して成り立った唯一のものではあり、それを特別と呼びたいのならそれはそれで構わないが、それでも現在は時間の流れ着く果てではなく、歴史はこれからも今を過去にしながら続くわけだし。

 それは例えるならば、進化の過程の結果人類が生まれましたメデタシメデタシでハッピーエンドだと言われているような気分と言うか。
 そりゃ書いてるアンタも読んでる私も人間だから、人間が誕生することに特別の力点を置きたいのは分かるが、人間の存在も偉大なる地球史から見ればただの通過点でしかないでしょうよ。なのにそこをゴールだと力説されても困る。
 つまりは現代に繋がらなかった伏流が未来で華々しく復権を遂げるかもしれない以上、中世は中世として記述するだけで良いのではないか。わざわざ現代に結びつける必要はあるのか、と言うことがいつも気になる。
 現代に続く道だけを区別して照明して見せることに違和感がある。それは人間こそが進化の頂点にして至高だと信じるのと同じくらい奇妙なことに思えてならない。

 まぁ、今回のル=ゴフは現代を知るために中世を知るのだと主張しており、その前提の前では私の我が侭はそもそも成り立ちはしないのだけれど。
 それに、私の感覚が現代という時代に囚われている以上、現代という時代が定規として用いられることも当然なんだろう。
 そう納得しようと努めても尚、消化しきれない何かが残ってしまう。上手く言えないこの気持ち、どうしてくれよう。

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