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『女の皮膚の下―十八世紀のある医師とその患者たち』感想:★★★★★

2011.11.24 Thu

女の皮膚の下―十八世紀のある医師とその患者たち

バーバラ ドゥーデン 藤原書店 2001-11
売り上げランキング : 788076
by ヨメレバ


 皮膚とは何かと問われれば、それは外界と「私」とを分け隔てる決定的な境界線であり絶対的な防護壁だ、と私は答える。
 なんらかの障害物により外界から隔てられた内世界の確保は生物の絶対的条件の一つであり、さらにその内世界に一定の恒常性(ホメオスタシス)を有し、自力でDNAを複製する能力を有するものを「生物」と呼ぶことになっている。
 DNAの複製能力が生物に必須の条件であるかについては、私は正直疑問である。この定義だとウイルスは生物とは呼べないこととなるが、DNAないしRNAを利用する以上、生物の枠組みに入れてやりたい気もする。そもそもこの、DNAと遺伝の関連が発見されたのはまだ比較的近年のことでもあるし、定義が確定しないのも当然かと思われる。
 だが外界と己の境界線(人間にとっては皮膚)の保持に関しては、絶対的で恒常的な、現代だけではなくもっと昔から変わらぬ当然の認識だと、私は本書を読むまで信じていたのだ。何の確証もないのに。いや、確証など必要としないほどに自明のことだと思っていたのだ。
 私にとって皮膚は、「恐ろしい」外界から私の中身を守ってくれる素晴らしい守護者であり、「私」という物理的な存在の揺らぐ余地のない外枠でもあった。
 皮膚が破れて中身がこぼれ落ちることが恐怖ならば、皮膚が開かれ外部から何かが侵入するのもまた恐怖である。
 だが一体いつから外部は「恐ろしい」存在になったのだろうか。そもそもそれは何故、恐ろしいのだろうか。
 私が想像するのは、空気中に漂う目に見えないウイルスや細菌たちである。だが彼らが発見されたのはそう過去のことではなく、それ以前は空気中には彼らは「存在しなかった」のである。認識されない存在は、存在しないのと同義なのだから。


 本書でドゥーデンが取り上げたのは、サブタイトルが示すように十八世紀をドイツはアイゼナッハとゴータで生きた内科医であるシュトルヒが記した、彼が後輩の内科医のためにと出版した書物である。シュトルヒは彼の住まう街とその周辺の患者を診たが、本書の対象となったのは女性患者たちの治療である。
 未だウイルスも細菌も発見されていない当時に於いては、外部は恐ろしい存在ではなく、皮膚もまた絶対的な守護者ではない。それどころか、皮膚は外部と「私」を隔てる障害物ですらないのである。








 本書の作者であるドゥーデンは、十八世紀のアイゼナッハの女性たちが保有していたイメージをこう記す。 
 
皮膚は壊れやすい。そして皮膚は境界線である。しかし、皮膚の意味は、外界に一線を画すことではない。皮膚はとりわけ、体内が姿を表す面である。(p.166)


 当時も確かに皮膚は外部と内部の境界ではあったのだ。だが彼女たちの恐怖と、私の恐怖とは、全く異なっている。
 私は境界線であり守護者である皮膚が、不当に破られることを恐れている。だが彼女たちは境界線である皮膚が、己の内部から生まれ外部へと流れるべき「フルス」の動きを阻害することを恐れた。
 私にとっては固有の形を取る体は、十八世紀の彼女たちにとっては全く持って固有ではない。彼女たちにとっては体とは、体の内部から流れ出る動きであり流れであり、決して静的で不変なものではなかったのである。私はここに衝撃を受けた。
 人間の体は太古からそう変わらぬ物体のはずである。変わるのは物体である体ではなく、人間の認識だ。けれども私はどこかで、体という物体が変わらない以上、それに対する認識もそう大きく変わるはずがないと思っていた。私の現在保有する身体感覚はある程度までは時代や地域に左右されるようなものではなく、その根本的な認識は不変で普遍だと考えていたのだ。とんだ誤解だ。

 ドゥーデンは言う。
私は歴史家として、ある境界線を思い切って越えなくてはならなかった。その境界線とは、つまり、身体、特に皮膚の下の隠れた体内を、周囲の環境から分かち、両者を認識論上、科学史上、心性史上、相対立する領域に追いやってしまう境界線である――こちら側に、身体・「自然」・「生物学」、向こう側に、社会的環境・歴史という具合に。こちら側には、究極的に不変だと考えられている「人間」の身体性があり、向こう側には、原則的に変化する歴史的なるものの領域がある。このような境界線を引いたために、今まで、身体は歴史から切り離され、身体がどのように知覚されてきたかという問題は、社会史的展望の彼岸にある盲点として解明されないままにされてきた。(p.9)


 私にとって、私の有する認識は絶対であった。それは科学的に裏付けられ、歴史によって保障されているはずだからだ。
 私が知っていた科学とは、一連の「自然の発見」の歴史であった。真実は化石のごとく価値のない数多の雑多なものの中に隠されており、先駆者たちがそれらを掘り出して白日に晒し、ライバルや同僚たちによって確認され追試験され、真実と認定されるのだ。その積み重ね、つまりは歴史が現代を作った。それは究極的に不変のはずであった。
 だがドゥーデンは私のイメージを一蹴する。
その種の歴史は、思想史として、一連の科学的概念を「事実」の発見の鎖として結びつけるときに、研究者のまなざしに、しばしば予言的力を付与する。さらに、進歩史であるため、しばしば近代的身体の源は、いろいろな発見が累積されてきた歴史にあるとせざるをえない。進歩史観の思想史の公理の一つは、孤立していて発見でき、その連続的な発見と蓄積が、徐々に今日の医学の知識体系をつくり出してきた、いわゆる「自然な事実」の想定である。(p.20)

 ここで彼女の言う「その種の歴史」とは、身体性の歴史のことである。さらに彼女はこの歴史観を「しばしば医学の自己正当化の歴史になる(p.20)」と指摘する。
 だがこの指摘は身体性の歴史以外の、科学全般に当てはまる。そう理解したとき、私は死んだ。少なくとも私の科学感は死んだのである。
 殺されて初めて知ったが、私は私の科学的な認識をとても大切にしていたようだ。それは私にとっての聖域であり、私のアイデンティティの拠り所となっていた。そのような理由で、彼女の言葉は私にはとてつもなく重かった。
 故に殺されてから一ヶ月間、私は真面目に反論を練ろうと努力したのだが、結局のところ、彼女の言葉の前に私は無力であった。反論出来ない以上、私に出来ることはただドゥーデンの言葉を受け入れることだけである。そこに勇気が必要だとしても。
 ちなみに、己の死を知ったときに私が真っ先に抱いたのは、「1985年に記された、こんなに古い論文に殺されるなんて」との恨み節だった。ここにも「新しいものほど真実に近いはずだ」との進歩史観が笑えるほどに如実に現れていて、非常に宜しいですね。私は今、とてもヤケクソである。


 せっかく毒を食ったのならば、皿まで食わねば損だ。どうせもう死んでいることだし。そんなわけで、続けよう。
 私は私の抱くイメージが、時代の印を深く刻んでいることを知った。
 「私」の領域が皮膚で終わると同時に、「私」の肉体が皮膚から内側に向かって展開するとの認識は、細胞が細胞膜ないしは細胞壁で包まれているとの生物的な知識から発したイメージだろう。私はこの「生物学的知識」を学び、それを受け入れたのだ。
 このイメージは決して私が生まれもったものではなく学んだものである以上、現代、少なくとも細胞膜ないしは細胞壁の発見以後の歴史的に特有な考え方であり、過去から一貫して代わらぬ普遍的なものでは決してない。
 かつて平安時代の女性たちは月経を有するが故に劣った存在と定義された。彼女たちは前世で何らかの罪を犯したが故に、不完全な人間すなわち女として生まれてきたのだ。彼女たちはその認識を学び、受け入れて生きた。
 またヨーロッパ世界では女は男の裏返しであるとされていた。男では出ている生殖器が女では引っ込んでいるのだ。それらは等価な、けれども正反対のものと見なされた。だから少女たちは大股で歩いたり跳ねたりすることを禁じられていた。そんな動きをすれば引っ込んでいるものが飛び出してくる、つまり男になってしまうと恐れられたのだ。

 後者2つの認識は、今となっては何の価値もない、驚くべき無知の産物だ。だがそういって過去を切り捨てる私の現在の認識が無知ではないと、誰が保障してくれるであろうか。
 後者の認識下に生きた人たちにとっては、私の身体に対する認識と同じように、それらは紛れもない「事実」であり、彼らはそれを変化することのない自明のことだと感じていたことだろう。
 ならば過去の彼らの認識に従い当時の感じ方・考え方を知りたいと思うのだが、現在自明とされている思考方法を捨て、既に失ってしまった認識を取り戻すのはとても難しいことである。
 本書の作者ドゥーデンは、十八世紀ドイツの小都市の医師シュトルヒの診療記録を手がかりに、当時の女性たちの身体感覚を知ろうと挑んだ。作者は七転八倒しながら、過去の女性たちに接近しようと足掻く。だが苦闘しているのは彼女だけではない。当時の医者であり、今回の資料である診療記録を記したシュトルヒもまた、新しい時代が到来しつつある医学の認識と、従来の伝統にどっぷりと漬かったままの当時の女性達の身体感の間で、苦悩したのである。
 その点でシュトルヒの記述は、アイゼナッハの女性たちの言い分そのままとは言えない。私が本書で見ることが出来るのは、現代へと漸進しつつある時代の境目で、伝統と革新の間で揺れ動く小都市の内科医シュトルヒが記した記録であり、またそれをドゥーデンが解きほぐしたものである。
 十八世紀には、シュトルヒが「生涯を捧げた身体には、明らかに基準がなく、それ自身は決して何物でもなく、未完成で、完璧な存在ではな(p.99)」かった。
 更にはX線もMRIも存在せず、それどころかシュトルヒにとっては、死後解剖が齎す知識すら死後の体の変化としてのみしか認識されず、その結果、解剖学的見解は生きている患者には適応し得なかった。
 そんな現在と較べると絶望的な環境の中で、シュトルヒに出来るのは「からだに起こったり、からだから出てくる印を通じて(p.146)」患者の体内の状態を推測することだけである。
 現在とは違い患者の体の状態を定義するのは医師だけではなく、患者にも決定力があった。彼は患者の訴えを聞き、その内容を解読し原因を推測し、そして患者の望む「治療」をするために、薬の処方箋をしたためる。内科医であるシュトルヒにとっては血を出す治療は彼の領域ではなく、患者の陳情の解読と推測、また薬の処方箋だけが武器である。
 彼の患者たちの体は不透明で、その皮膚の下ではどんな不思議も起こり得た。驚愕は月経を止める原因に成り得たし、母乳は白い便として排泄し得た。体の開口部は交換可能であり、驚きや怒りなどの感情は体の内部で起こる動きに変化を与えることが出来た。
 シュトルヒの生きた時代・場所に暮らす人々にとって、体は脆く変わりやすい存在であると同時に、それをどう解するかは一種類の医者だけの独占下にはなかった。
 当時は内科医、外科医、軍医、風呂屋(瀉血などの処置をする)、もぐりの医者、万能薬を売り歩く薬屋などの雑多な医療関係者が存在しており、彼らの間には大学教育を受けたエリートである内科医から、教育とは無縁なもぐりの薬師他に至るヒエラルキーが存在してはいたものの、その領域は非常に込み入っており複雑であった。
 治療を受けるのならば正規の教育を受けた医者の他には選び得ないと考える私には、この雑多さがずっと理解出来なかったのだが、ドゥーデンはその理由を明確に述べている。
体内と体外の間に複雑な関係を持ち、毛髪・血・尿について、また清浄・不浄について特有の観念を持っているこの身体は、けっして一つの職業や一つの知識形態が独占することのできるものではなかった。身体が現実の上でも象徴の上でも多様であることが、身体に助けの手を差し伸べる治療従事者の社会団体が多様である事実に、対応していた。(p.46)

 つまり患者は、己の体の解釈に合う治療者を選べたのだ。それが時代が現代に近づくにつれて、大学教育を受けた「正規の」医者にのみ独占されっていく。
 かかりつけの医者の言い分に納得がいかない場合はセカンドオピニオンを受けましょう。そんなことが言われ始めたのは、まだ最近のことだ。だが十八世紀のアイゼナッハにおいては、そんなことは言われるまでもなく当然のことであったのだ。


 彼らの身体観はある部分では豊かで、そしてある部分では非常に脆弱でもある。
 十八世紀にドイツの小都市に存在した身体イメージと、現在の私が保有するイメージとは大きく食い違う。そのどちらが優れていてどちらが劣っているなどと言うことは出来ない。
 だがどちらのイメージも確かに歴史の刻印を帯び、その時代特有の、不変とも普遍ともほど遠いものなのである。現在は未来に書き換えられる。現在が過去を塗りつぶしたように。
 結局のところ、不変などは、永遠などは、獲得し得ないのかもしれない。


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テーマ別:医学|テーマ別:近世ドイツ
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 実は再読。初めて読んだのは今年の1月で、その時に華麗に殺されたのでありました。死んだままで年を越すのもアレかなと思い、ここに来て再読した次第。
 2度目の今回はドゥーデンは私を殺さなかった。つまり私は1月に殺されることで発見した私の聖域を失ったようだ。
 「こんなところに聖域があったなんて! 私にもアンタッチャブルで説明不要の聖域があったのね」と嬉々として己の聖域に自分自身で踏み込んだ以上、別に良いのだが、それでも私の重みに私の聖域が耐えられなかったのはややショックである。
 そんな訳で私のアイデンティティの拠り所は少なくとも1つ失われ、おかげさまで私の精神は今、非常に座りが悪い。
 この変わってしまったバランスに私が慣れることになるのか、それとも新たな支柱を求めて何かに縋り付くこととなるのか楽しみだ。
 まぁなんだかんだ言いつつも、科学に対する私の愛好は絶滅してはおらず、踏み荒らした聖域の下で密かに、けれども確かに息をしているようにも思えるのだけれど。

 しかし1月に体験した死にっぷりはいっそ清々しかったなぁ。余りに華麗に斬られたから、斬られたことに暫く気が付かなかったレベル。
 あれほどに見事に斬られるなんて、そうそうないよ。と言うか、そう頻繁にやられたらアイデンティティが崩壊して私の自我が真面目に危険水域に突入する。

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『女の皮膚の下』 あるいは、科学の発達の齎したアイロニー?

 啓蒙書や学術書系の本が続いたので、そろそろ何か文学系の本を読もうと思ったが、こ
壺中山紫庵 2015.02.19 21:20