RSS|archives|admin


スポンサーサイト

--.--.-- --
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


Category:スポンサー広告 | Comment(-) | Trackback(-) | top↑ |

『修道士と絞刑人の娘』感想:★★★★☆

2011.08.13 Sat
修道士と絞刑人の娘 (1980年)
修道士と絞刑人の娘 (1980年)アンブローズ・ビアス 倉本 護

創土社 1980-04
売り上げランキング : 1351429


Amazonで詳しく見る
by G-Tools


 函帯の背には「恐るべき誤解」との文字が白く印刷されている。誤解。
 私たち生き物は誰しも己の感覚器官で外界を認識し、それにバイアスをかけて脳内に再構成した世界の中に生きている。「私」という生身が生きるのは実世界であるが、「私」という認識主体が生きるのは脳内に再構成された個人的な世界なのである。
 外界を認識するための器官は生物によって精度も強度も違うのだから、私が認識する世界と私の飼い猫が認識する世界は違う。そして人間同士であっても感覚器官の違い、受け取ったデータをどう扱うかの違いによって私と貴方の見ている世界は異なる。同じ映画を見ていても記憶に残るシーンが違うように、日々暮らす毎日もまた個人によって認識を異にしてるのである。
 人間は誰だって現象を「正しく」認識することなど出来はしないのだ。認識の過程には必ず思い込みやら偏見やらが入り込む。そしてその思い込みや偏見には個人差があり、故に脳内に再構成される現実もまた異なる。
 けれど普段はそんな差異に気が付かない。私が認識しているように相手も認識しているのだと無邪気に信じている。それは当然だ。いちいち差異を気にして生きるだなんて面倒で仕方が無いし、みんなが同じだと考えた方が安心感がある。

 だがそれでも、その無邪気さが破られる時がある。それは意見の対立が起こったときである。相手の言い分がこちらと噛み合わない。どうしてだろう、と原因を探ればだいたいの場合において、認識のズレが発覚するのである。
 「言ってくれなくては分からない」との言葉があるが、その言葉が発せられる時、相手は「言わなくても分かると思っていた」と応じることが多い。
 私と貴方の見ている世界は違う。そしてその差異は問題が発覚するまで認識されることは少ない。私が考えているように相手も考えているのだと思い込むから、相手の行動に「信じられない貴方がそんな人間だったなんて」と罵る事態にもなる。相手は相手で善意で動いているのかもしれないのに。
 思い込みと誤解、本書のテーマはその一言に尽きる。


 物語は主人公である修道士アンブロシウスの一人称の日記の形で綴られる。
 アンブロシウスは、修道院長の命を受け、同僚二人と共にザルツブルク近郊のベルヒテスガーデンにある修道院へと派遣されることとなる。
 その途中でアンブロシウスは絞首台にぶら下がる罪人の屍体と、そしてそれに集る鳥を追い払おうとする美しい少女と出会うこととなる。少女の名はベネディクタ。福者の列に加わった、との意味。絞首台の下で平然と屍体を見上げる彼女は、絞刑人の娘なのでありました。



スポンサーサイト
Theme:読書感想 | Genre:本・雑誌 |
Category:星4つ:★★★★☆ | Comment(0) | Trackback(0) | top↑ |