イタリアはオートラント。キリスト教徒の住まう彼の地は1480年8月12日トルコ人に侵略され、住民の多くが虐殺された。
彼らはあらゆる物を破壊したが、しかし、教会の床に配されたモザイク画だけは傷つけなかった。
だが時間は価値のあるものにも、ないものにも平等に襲い掛かる。全ては移り変わり、不変のものなどありはしない。モザイクもまた、徐々に時間に磨耗されていく。
その絵が示す意図はもはや闇に消え、誰にも読み解けない。モザイクを構成する小さな破片たちは、静かに静かに劣化を続ける。かつての色も意味も、今は失われてしまった。
だが時間は価値のあるものにも、ないものにも平等に襲い掛かる。全ては移り変わり、不変のものなどありはしない。
――本当だろうか? 本当に今や全て失われてしまったのか?
違う、彼らは待っている。
異教徒による侵略と暴力の記憶を刻み、キリスト教徒の苦難と彼らの命が流した血により特別の地となったオートラント。そこには当時の出来事が、今も変わらずに漂っている。
彼らは待っているのだ。歴史の輪が閉じられるのを。そしてまた、変わらずに、そして新しく始まるのを。
オランダ人である「私」は、長い時代を生き抜いてきたモザイクの修復のためにオートラントを訪れる。
だが彼女にとってオートラントは、ただの仕事場ではなかった。それは唐突に海へと消えてしまった母親が「私」に残した唯一の縁、彼女の一族が辿った歴史を秘めた地であり、またそこは「私」の父親が決して見ることのなかった南国の光が差し込む場所でもあった。
時間に磨耗させられたモザイクが秘める歴史、その絵自体が密やかに示す意味、小さな破片から成るモザイク自体が「私」を絡めとり、オートラントに、彼女をこの世に生み出した先祖たちの歩みをその頭に吹き込む。
過去から現在へ、そしてその先へ。時間の経過はしかし、ここでは混乱している。
最初に光があった。オランダの陰鬱な光とは違う強烈なオートラントのそれは、正午には悪魔を送り込む。
「私」が日々修復するモザイクの小片は彼女の手の中で溶け、「私」が日々歩くオートラントは彼女に囁きかける影に満ちている。
「私」がモザイクに意味を、オートラントに己の出自を見出そうとすればするほど、焦点はぼやけ全ては無に、あるいは有に広がり続ける。
もはや時間は無意味だ。全ては偶然、最初に光を生み出したもうた神が振るサイコロの目に過ぎない。だがそれは、覆い返すことの出来ない偶然なのである。
この男が私に何を言わんとしてたのかが、分かりだした。それとともに、怖くもなっていた。自分の生命が宙ぶらりん以上であり、偶然や不確定なものの暴力以上なのだということを感じつつあった。(p.144)
いいですか、現代世界では偶然は神の介在と両立しないかに見えます。でも、古代人や中世人にはそうではなかったのです。彼らにとっては、偶然は聖なるもののあらゆる徴表を持っていました。つまり、それは人智美の暴力を発揮できるのと同じように、彼らに恩恵を施すこともできる、というのです。(p.144)
続きを読む